
梅雨の合間の、珍しく晴れた朝のことだった。午前六時、まだ空気がひんやりと湿っている時間帯に、私はリュックをひとつ肩に担いで玄関に立っていた。隣には、シベリアンハスキーのルカがいた。青みがかったグレーの被毛に、片方だけアイスブルーの瞳。そのルカが、しっぽをゆっくりと揺らしながら、私の顔をじっと見上げていた。
この日は、長野の山あいにある「キタノワ高原」まで、車で片道約五時間の遠距離移動だった。ハスキー犬との長距離ドライブは、これが初めてではない。けれど、毎回ちゃんと緊張する。
まず気をつけたのは、出発前のトイレだ。
車の揺れによって普段より尿意が起こりやすくなるため、出発前に愛犬のトイレを済ませておくことが大切なポイントになる。
ルカを近所の公園に連れ出して、たっぷり歩かせた。朝の草の匂い、土の湿り気が靴底から伝わってくる感覚——そういう時間が、実は旅の準備の中でいちばん好きかもしれない。
食事のタイミングも重要だ。
車酔いをしない犬の場合は、出発の一時間前に朝ごはんを食べさせるのがよく、念のため腹八分目くらいにしておいたほうが無難とされている。
ルカはわりと胃が強いほうだが、それでも満腹のまま車に乗せたことがある。あの日の後部座席の惨状は、思い出したくない。(心の中でそっとツッコんだ——「ハスキーって、こんなに大量に吐けるのか」と。)
車内でのルカの居場所は、後部座席に固定したハードクレートだ。
一番安心・安全なのはハードクレートで、万が一の急ブレーキや急ハンドルでも全身が囲われているので、大きく身体をぶつけることもなく安心できる。
最初のころ、ルカはクレートをひどく嫌がった。入れようとするたびに、体をくの字に曲げて抵抗した。それが今では、クレートを開けるとすんなり入って、丸まって目を閉じる。慣れというのは、犬にも人間にも等しく訪れるものだと思う。
高速に乗ってしばらくすると、ルカがうとうとしはじめた。クレートの扉越しに、鼻先がゆっくりと下がっていくのが見えた。ああ、眠れているな、と思うと、こちらの肩からも力が抜ける。
犬は人間以上に揺れや振動に敏感なため、できるだけ急発進・急ブレーキをしないように気をつけることが大切で、特に山道はカーブが多いのでゆっくり走ることが重要だ。
アクセルを踏む足に、いつもより意識が向く。
途中、高速道路のサービスエリアで一度停まった。
一時間半に一回は高速道路のドッグランで走らせてあげることで、車の中でも寝てくれやすくなる。
ルカをクレートから出すと、ぐっと伸びをして、それから勢いよく走り出した。芝の上を駆けるときの、あの乾いた蹄音のような足音。鼻をひくひくさせながら、知らない土地の匂いを全身で吸い込んでいる。その姿を見ながら、私も缶コーヒーをひとくち飲んだ。温かくて、少し苦かった。
シベリアンハスキーは、オオカミを思わせる精悍な顔立ちながら、性格は人懐こくて甘えん坊で、頼りがいのある容姿と愛らしい性格のギャップも魅力のひとつだ。
実際、サービスエリアで休憩していると、通りすがりの家族連れが「わあ、ハスキーだ!」と声をあげた。子どもが恐る恐る近づいてくると、ルカはしっぽを激しく振って、ぺろりと手を舐めた。精悍な見た目と、この無防備な甘えっぷり。いつ見ても、そのギャップに笑ってしまう。
現在では、日本人の犬の飼育技術が向上し、ハスキーのような犬種でもしっかりとトレーニングをこなし、住環境を整えられるようになったことで、ハスキーの人気が再び高まっている。
それでも、遠距離移動には体力的な負担がある。
シベリアンハスキーはそり犬だったため運動欲求が強くスタミナがあるが、運動させる際には暑さと関節の負荷には十分に注意する必要がある。
特に夏場は、車内の温度管理が命綱になる。エアコンは常時稼働。ルカが暑そうに口を開けていたら、すぐに温度を下げる。
目的地のキタノワ高原に着いたのは、午後一時を少し過ぎたころだった。車のドアを開けると、松の香りが流れ込んできた。標高のせいか、空気がひんやりと澄んでいて、肺の奥まで入ってくる感じがした。クレートから出たルカが、初めて草原の風を嗅いだ瞬間——その表情は、今でも忘れられない。
遠距離移動は、準備と安全管理の積み重ねだ。でもそれ以上に、ハスキー犬と一緒に走り抜けた五時間の道のりそのものが、もうすでに旅の一部になっている。
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